犬になれなかった裁判官という本を読んだ。
大学の講義でも憲法違反が疑われる最高裁の判決統制とか、
裁判官の仕事量の凄まじさとか習ったけど、
裁判官も色々大変なようで・・・。

 これは個人的な偏見もあるけれど裁判官の手記って大半が
自分の不遇に対する不平不満であったり
市民運動への参加がどうのこうのだとかいったものが多い。

 人事のことは外部の私には分かり得ないことだからいいとして、
市民運動に参加することがどうして
市民に近い裁判官となるのか理解に苦しむところだ。
市民運動への参加の自由が暗黙的に制限されていることへの
裁判官としての抗議なのであろうが、
市民運動なんてやってる市民なんて
私の見る限り少数派じゃないかと思う。
市民運動に参加したら市民感覚とやらが養われると思ってる時点で
「あんたらちょっとおかしいんじゃないの?」と突っ込みたくなってしまう。

 私は裁判の傍聴に1〜2週間に1回くらいの割合で行っているが、
本に書いてあるような冷たい裁判官とかいうのを未だに見たことがない。
大抵の裁判官は本人訴訟の事案に対してでも
細かくアドバイスをして優しく主張を聞き出していると思う。
 もっとも、私が問題点に気づかないだけなのかもしれないけど。

 市民だのなんだのといって必要以上に気にするから
余計に不自然になったり「裁判官=市民離れ」といった自己暗示にかかってしまっているのではないかと思う。どこかの国がその国の某マスコミの執拗な攻撃によって自虐的になっているように。

 そもそも、市民感覚とか国民の感覚というのは何なのかさえ不明確なのである。
マスコミはしきりに市民感覚というけれど、
市民感覚とは何なのかと定義しているところを見たことがない。

 裁判ウッチャーとやらにウケのいい裁判をすること?
大衆世論に迎合した判決を下すこと?
反戦・反核運動に出ること?
革新政党系の団体に所属すること?

 全くもって不明である。
新聞などを見て思うに、新聞などでいう市民感覚というのは
裁判ウォッチングや行政なんたらなどをやっている
「プロ市民」と呼ばれる連中にウケがいいことなのかもしれない。

 何でもかんでも市民代表だなんだと僭称して
運動するジジババは正直鬱陶しい。

連中のことは置いといて、当事者の視線にたった、
紛争解決に色々工夫をされている裁判官にはやはり敬意を表したいものです。
 現職の裁判官の方はあまり神経質にならずに
職責を全うして頂きたいと思います。

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